「勉強だけできる人」とは何か

凌がるゝ人は凌ぐ人よりも真に愚かなりや、恨まるゝ天は恨む人の心を測り得べきや。斯の如きは世なり。斯の如きは人間なり。
-北村透谷「哀詞序」

勉強ができることそれ自体はもちろん良いことだろう。選択肢が増える。厭な人と顔を合わせる機会を比較的減らせる。だが、「勉強だけできる人」、そういう人は壁にぶつかり、時に進めなくなる。幸福な人生を送るために一つだけ能力を受け取れるとして、学力を選ぶ人はあまりいないだろう。世俗を離れ竹林で知的高みを目指すのならそれはそれで幸福なのかもしれないが。

勉強だけできる人とは何かを探るべく、勉強に必要な能力と、社会(主に給与生活者としての職業生活)で必要な能力をそれぞれ考えよう。

勉強ができるために必要な能力はなにか?解答のノウハウを暗記するだけで何とかなる試験もあるが、レベルが上がるとそうもいかないだろう。
勉強それ自体で身につけられないのは、国語教育以前の最低限の国語能力である。これは家庭教育に歪みがあると身につかなくなるものであるらしい。
勉強それ自体で身につけられるものは、例えば知識そのもの、知識を分析および綜合する能力、自然現象などの本質を見抜く能力、論理的に結論を出す能力、結論を表現する能力。もっとあるが、例えば下記を参照されたい。
https://www.u-tokyo.ac.jp/ja/admissions/undergraduate/e01_01_18.html
前4つの能力(要は知識とそれを応用する能力)は社会で役には立つが、無いと困るというほどクリティカルな能力ではないように思う。一方表現能力は社会でも重要だが、受験において求められる表現力のレベルはそう高くない。相手の知識や立場に気を配る必要はなく、自分が問題とその正解を理解していることさえ伝わるように書けばよい。学力的要求がたとえ高くとも、コミュニケーション能力の要求値は社会人に比べ非常に低い。
最低限の家庭教育さえ可能であればあとはテキストブックに向かう視覚優位の能力でなんとかなってしまうものでもある。日本では講義中に多数の問答があるわけではない。講義がたいして聞けなくても本や教科書を読めば問題ない。

次に、社会を生きるうえでクリティカルな能力は何か。特定の相手を想定し分かりやすく説明する、報連相を適切な頻度と形式で行う、立場の異なる相手がどう思うか考えてコミュニケーションをとる、人や物の細部まで目を配る、計画し優先順位をつける、新たなアイデアを生み出す、他多数。さらに、職業生活以外でも必要な、基本的な社会性、全ての意味でのコミュニケーション能力。
これらは勉強においては必要とされない能力ばかりである。また、職業生活で身につけられないことはないが、それはビジネスに特化したチューニングを行うもので、基本的にそれまで生きていく中で身につけていくものである。
会話をよく理解して自分も上手に行うことができるか?身の回りの万象を理解、解釈し、適切に対応したり、言葉にしたり、応用できるか?こういった基本的な社会性を身につけなければならない。
これらすべての能力はだれにも必要なわけではない。だが、なくなればなくなるほど選択肢が狭まっていく。社会にまつろわぬ人の受け皿だった徒弟制度や家族経営の個人商店も今はほぼ存在しない。

これまでの記述をまとめると、「勉強だけできる人」というのは、家庭で最低限の国語力を身につけかつ、テキストブックで身につけられる知識やその応用に長けているが、コミュニケーション能力や社会性を欠いている人、ということになる。
ほかでもない。これは私の経験から書いた文章1である。

「勉強だけできる人」に道は開かれているか?
言ってしまえば受け皿はある。ほぼ学歴だけで採用するような会社もあるからだ。
だがそういう会社は必ず玉石混淆になる。石の方は選択肢が限られ、時に邪険に扱う者もいるだろう。コミュ障にはライフステージを進展させることは難しい。選択肢も狭い。

青春なんてのは強靭な社会性を前提として成り立つもので、私の経験した「青春」などまがいものだったのかもしれない。もう、たとえそうであっても構わないが。

このような人の前には3つの門がある。
針の穴より狭い天才の門。
あるかどうかすらわからない仙人の門。
大口を開けている悲痛の門。
今や、死に際に苦しむであろうことを悟って、3番目の門を通るしかないのかもしれません。

  1. 私が本当にこの通りの人物かについては何ともいえないところがある ↩︎

美の零落 1

美という語にはいくつかの意味があるが、ここでは女性にきれいだと言うときのようなヴィーナス的な美とはまた異なる、藝術や自然に宿る姿形のうつくしさを扱う。「真・善・美」というときの美を想定している。

美はまず自然に宿る。次いで自然美が人を美的な高みに導き、美的にすぐれた建物や景観、藝術品などができる。この段階が美においては理想的な状態で、自然と真・善へ向かう感覚が磨かれていく。キリスト教的な言い方をすれば神が唯一の真・善・美であり、神の言葉へ向かいその恩寵を受けることのできる時代が存在した。
しかし、20世紀以降テクノロジーのエネルギースケールが自然を改変できるほどに増大し、経済効率その他美とは全く関係のない理由で街が作られていった。美的に貧しい環境では人の美的感覚は明らかに育たないだろう。それに伴い、真や善を捉える感覚はなくなっていくだろう。人は、神から離れていく。

経済効率を求めて物を作り続けた結果、物的豊かさを得られたからよいのでは、という意見もあるだろう。だが、私は例えば物的豊かさを得るために偽・悪・醜を迎え入れようという考え方には抵抗を感じる。物が豊かでも盗みや殺し、悪政の世界ではあまり意味がないだろう。

ここで、美的世界が堕ちる情景を3人の作家1の視点から見ていこう。

「沈黙の春」で環境問題を告発し、世界に初めてのインパクトを与えたレイチェル・カーソン。彼女はその「沈黙の春」の冒頭に印象的な寓話を載せている。

アメリカの奥深くわけ入ったところに、ある町があった。生命あるものはみな、自然と一つだった。町のまわりには、豊かな田畑が碁盤の目のようにひろがり、穀物畑の続くその先は丘がもりあがり、斜面には果樹がしげっていた。春がくると、緑の野原のかなたに、白い花のかすみがたなびき、秋になれば、カシやカエデやカバが燃えるような紅葉のあやを織りなし、松の緑に映えて目に痛い。丘の森からキツネの吠え声がきこえ、シカが野原のもやのなかを見えつかくれつ音もなく駆けぬけた。(中略)ところが、あるときどういう呪いをうけたのか、暗い影があたりにしのびよった。いままで見たこともきいたこともないことが起りだした。若鶏はわけのわからぬ病気にかかり、牛も羊も病気になって死んだ。どこへ行っても、死の影。農夫たちは、どこのだれが病気になったというはなしでもちきり。町の医者は、見たこともない病気があとからあとへと出てくるのに、とまどうばかりだった。そのうち、突然死ぬ人も出てきた。何が原因か、わからない。大人だけではない。子供も死んだ。元気よく遊んでいると思った子供が急に気分が悪くなり、二、三時間後にはもう冷たくなっていた。 自然は、沈黙した。2

これは、自然の喪失についての文である。実際当時のアメリカでは経済効率(というより化学薬品の利権か)によって自然が改変あるいは破壊されていた。

「苦海浄土」で水俣病患者の壮絶な悲劇を文学の形で伝えた石牟礼道子。
彼女の著作「花びら供養」には、日本の美の喪失について直接書いた一節があるので引用してみよう。

たとえば一個の人体としてこの列島を見てみるとする。水俣だけにかぎらない。心臓も腎臓も右脳も左脳も、もう血液どろどろではないか。ちなみに山つきの棚田のほとりの、水の源、小川のはじまるところを見てまわっていただきたい。必ず、三面コンクリート張りのドブに改修され、フナもドジョウもナマズもタニシもシジミも川藻も死に絶えて「小鮒釣りしかの川」は腐臭を発しているはずである。少なくともわたしの身辺では、そうなっている。近代教育を受けるようになって知的に上昇したつもりで、田舎を見下げ、その山川や先祖の墓地の面倒を見てきた村落を見捨ててきた都市の年月があった。「都市と地方の格差」は経済のことだけではなく、この国の近代の精神史に、異常なゆがみをもたらしている。
食の安全と声高にいうけれど、農薬や化学肥料なしで作物を作れる農家が減ったために、野菜の味も変化していることを「消費」と「要求」だけを心がける人々は気づかず、味覚が落ちていることに気づかない。三年ほど前、東京にゆくことがあって、某有名ホテルの食堂や無名食堂で、野菜の不味さにショックを受けた。国民的味覚の下落が起きているのではないか?
うっかりテレビのスイッチをひねると、タレントたちのしぐさ、表情、身につけているものの色も形も下品の限りである。日本人は世界の水準をこえて、その下卑さにおいて群を抜いているのではないか。子供の学力や躾の無さは親や家のせいだろうから、戦後六十年かかってこの国は、精神のたががゆるんでしまったにちがいない。あらゆる意味で「美」と「徳」の基準を見失い、倫理社会から失墜してしまったとしか思えない。3

かなり直接的に、日本の美的凋落について書いている。このような美的凋落を招いたものは、それこそ水俣病を招いたものと同根であろう。

2008年に「日本語が亡びるとき」が話題となった水村美苗。彼女は同書の最終章で、たとえいくら文化財を壊しても、日本人さえいれば日本を見失うはずはない、という坂口安吾の意見に反論する形で、そんなことを思っているうちに日本の風景はどうなったか、と続ける。

建築にかんしての法律といえば安全基準以外にないまま、建坪率と容積率の最大化を求める市場の力を前に、古い建物はことごとく壊され、その代わりに、不揃いのミニ開発の建売住宅と、曲がりくねったコンクリートの道と、理不尽に交差する高架線と、人が通らない侘びしい歩道橋と、蜘蛛の巣のように空を覆う電線だらけの、なんとも申し上げようのない醜い空間になってしまった。散歩するたびの怒りと悲しみと不快。4

その後、京都でさえも日本人は壊し続け、西洋人が腰を上げて保存している、と続く。これも文化の喪失、したがって美の喪失に関する証言の一つである。

このような、20世紀以降の開発による美の凋落はあらゆる国で起きていることだろう。ただ、とりわけ日本は景観保持意識などが弱いといわれる。また、そんな美が失われ続けている日本において、子供たちの言語基礎能力の低下が見られているという。美の喪失との因果関係はわからないが、「ごんぎつねが読めない子供たち」という話を見てさすがに驚いてしまった。
次回があればそんなことを考えてみたい。

  1. ヴィーナス的な美の話じゃないといいつつ3人とも女性作家だが全くの偶然である。 ↩︎
  2. レイチェル・カーソン「沈黙の春」青樹簗一訳(2016,原書1962) ↩︎
  3. 石牟礼道子「花びら供養」(2017,引用部は2008年著) ↩︎
  4. 水村美苗「日本語が亡びるとき-英語の世紀の中で」(2008) ↩︎

人の手

今の子供たちは大変だ。外国語やプログラミング教育ばかりか、多文化共生やジェンダーといったSDGs的な「常識」の理解なども必要とされる。
しかし、そのために教科や授業時間が新設されるでもなく、既存の教科の時間を減らして行われるがために、
基礎的な語彙や情緒、表現の能力が身につかず、与えられる内容を表面的に理解しようとするだけの砂上の楼閣状態になっている。
そんな状態で、情報が氾濫するジャングル -疫病や毒蜘蛛や蛇や殺人アリが跋扈する- に身をさらしている。
これが、「AIに負けない子供たち」を作ろうとする取り組みの現実のようである。

AIと勝負するとして、勝てる可能性はあるだろう。翻訳やプログラミングであれば、プロレベルの技術者はAIを超える成果を出すことができる。そもそも、我々の生きる現実を書くことは人間にしかできない。
しかし、AIと同じ土俵に立って負けない知的能力をつけるのは一般に難しい。分野によっては新幹線に負けない走力をつけるようなものだろう。人という生き物は未だ生物学的には野獣のままだが、機械には伸びしろがある。現在のようにAIとの勝ち負けを考えたり、成果・プロダクトの良し悪しに拘泥すれば、人類にはいずれ尊厳も居場所もなくなるだろう。「人間は必要ない」となるかもしれない。

人にとって第一の問題はどう幸福に生きるかであると思う。いかに一番交換価値の高いものを生み出すかを追求する生き方もあるが、それは一部でしかない。生きるというのは体験するということであり、幸福に生きることは体験を充実させることである。そして、それに主体性は欠かせないものだと思う。
人は泣きながら生まれ、ハイハイを覚え、二本足で立つ。ごっこ遊びを覚え、やがて授業に取り組み、社会性を身につける。働く。家事を覚える。
生きることが主体的な体験の積み重ねで、その充実が成果よりも本質的であると考えれば、AIは人類を打ち負かすものではなく、あくまで人類を補助するべきものでしかなくなる。(成果を目指すことも主要な自己実現の一つだが、それが交換価値である必要はない。)
人にとって理想的な生というのは、無限の点滴で自動的に栄養補給する生活ではなく、日々食事を味わったり作ったりする生活であろう(ほとんどの人にとっては)。

人が生活の中で主体的な体験を行う具体的な活動はいくつもある。
歩く、字を書く、料理する、絵を描く、楽器を演奏する、短歌を詠む、なんでもいい。充実していると思うなら仕事でもいい。

AIのようなテクノロジーは、人の役割を奪い主体性ある生活をするうえで脅威になるという面もあるが、逆に苦役から人を解放し、より自由に生活させることもできる。たとえば農業機械の発明は農民の時代を終わらせ多くの人々を解放した。より多くの人が自分のやりたいことをできるようになった。新たにこのような恩恵を受けられる可能性は残っている。

ここまで、主体性もってやりたいことやるのが人生の理想と書いてきた。
多くの人はそうだろうと思っているが、そうではない人もいるかもしれない。
ただし、人が芸術を生み出すにあたっては非常にクリティカルな問題で、新幹線で旅をしても奥の細道は生まれないように、主体的活動の省略が致命的な影響を与えると聞いたことがある。
私は人の手による文明が平和的に続いてほしいと思っている。そして、そのためにできることをしたい。



※第1段落の参考:石井光太「ルポ 誰が国語力を殺すのか」(2022)